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2007年6月18日 (月)

文明と生命力の使い道

BGMはこれがいいかな・・・

「生命力」と聞いて何を連想するだろうか? 若葉が芽吹く様子。健康を回復していく様子。破壊された自然環境が回復していく様子、生き物が厳しい環境でたくましく生きている様子、種族の進化etc・・・
生きているものには、必ず「生命力」と呼べる様な何かが潜在している。無論人間にも。
生命力は単に肉体的なものでなく、知恵、直感、分析力、判断力、気力、才能、素質、運、勇気・・・生きることを助ける力全て。

大昔、人間は野生動物だった。私達が当然知っている知識や技術もなく、生活は不便で大自然での生存は厳しい。その代わり、現代人よりもたくましい生命力を持っていた。「野生の勘」とでも言うべき生存本能から来る直感力も、今よりずっと優秀だった。
食べ物を得る、良い住処を得る、危険を回避する、敵に勝つ、体を回復させる、伴侶を見つけて子孫を生み育てる。人間も他の生き物同様、己の生命力をフルに発揮出来たとき、本能的に幸せを感じていた。野生動物だった頃、生命力の形態はとてもシンプルだった。だからって不自由しているとは思わなかったろう。

やがて人間は文明を作るようになった。農耕や牧畜のほか、様々な「職業」が都市部から生まれた。野生時代には必須の「本能的な直感力」は徐々に薄れ始め、一部の「素質」ある者達が宗教的指導者や占い師になってその本能的役割を負った(一部では迫害もされたが)。
収穫の安定を図る、家畜を増やす、家を繁栄させる、自分の仕事を成功させる。自分の仕事が他人を助ける。産業や交易で栄える。・・・領土を広げる。
時代が進むにつれ、生き方の種類が増えるにつれ、生命力の形が細分化していったが、どういう形であれ、自分の生命力が有効に発揮出来た時、ヒトは幸せだった。本能がそれを知っていた。
当初。自分の生命力を更に効率よく発揮し、生命力の可能性を広げるために、人々は文明というツールを作った。強大な帝国が生まれ、学問と文化が華開いた。学問や文化も人が生命力を発揮した例だ。その分野で己の生命力をフルに発揮出来た時、人は本能的な幸せを感じていただろう(本能といものを動物的な部分のみに限定せず広義にとらえて)。

現在。先進国と呼ばれるエリアにおいて、生活はとてもとても便利になった。生存が楽になった。その分、あまり生命力を使わなくても済むようになった。、「本能的な直感力」は科学的根拠がないので存在を否定された。けれど最近になって、否定したはずが何故か不思議な魅力を持つようにもなっていった・・・
人々は生活の便利さ(文明)を維持するために毎日働く。その生き方は、自分のなかにある多様な種類の個性ある生命力のうち、ほんのわずかな部分しか使わずに生きるということだった。日々「生命力をあまり使わないことが前提の生き方」は、裏を返すと己の色々な生命力を使って「本能的な幸せ」を作る機会も少ないということ。そういう発想がひらめきにくいってこと。人々が「豊かになったけど、何か心が満たされない」と訴え始めたのは、いつの頃からだろうか? ヒトの本能は、「幸せ」を感じているだろうか? 文明を「生命力を代替する」ような使い方をするということは、本能から見ると「(生命力が)文明を使うんじゃなくて、(生命力が)文明に使われている」ように見えるのかもしれない。使う機会の無い生命力は、抑圧されていく・・・
(占いの利用客で、『自分でなく占い師に叶えてもらう・解決してもらう・決めてもらう。』と最初から自分の生命力を使わず占い師に全てを代行させる前提の発想になってる人も多い。恐らく、宗教や精神世界の分野でも同じだろう。占い依存症は文明病なのかもしれない)
これは旅行記最終回でも少し書いたが、己の生命力を使わないでいると、、「うまく生命力が引き出せない」「自分の生命力が分からない・使い道が分からない」「どうしたら自分の生命力が使えるのか分からない」なんて事態も発生する。野生の時代なら、あまりに危険すぎる事態だ。「自分の生命力を見失った」んだから。しかし今は便利な世界。別にそれでも生存に支障はきたさないので、そんな事態が起きても気付きにくい。その代わり、いつの間にか己の多様な生命力が抑圧され、いつの間にか本能的な違和感や不安感や閉塞感が無意識に積もって「心」の領域に反映される。
私が旅したチベット、インド、ネパール、雲南。現地の人達は日本人より生命力を使う。特に遊牧民の生命力は凄かった。苛酷な環境で、不便で、お風呂もなく、そう良い物も食べていない。けれど、皆いい表情を持っていた(参照)。訪れたどの場所でも皆様々な問題を抱えてはいるが、多様な生命力を有効に発揮することで得られる最も基本的な幸せは知っているようだった(先進国でスローライフが流行ってるのは、彼らのような生き方を懐かしんでいるからか?)。

「私達も生命力のために文明を遠ざけて彼らのような生活をすべきだ」と言うつもりは全くない。ただ、己の中に潜む多様な生命力を自覚し、発揮し、有効に使いこなす発想はあってもいいと思う。忘れ去られ、有効活用していない生命力が、一体今どれだけあるんだろう。
文明の便利さを、「自分の生命力を省略」するために使うか、「自分固有の生命力をフルに活かす(生命力を後押しする)」ために使うかで、だいぶ違ってくる気がする。文明に自分の生命力を代替・省略させず、文明を「自分の生命力を活かし、生命力の可能性を広げるためのツール」として使いたいものだ。文明が未発達だった時代には原始的な目的に使われていた生命力も、便利になった現代ではまた別の生かし方が出来るような気がする。
どんな生命力の使い方をしようと、どのような生活形態をとろうと、どれだけ巣作りが発達しようと、私達はアリやミツバチやイルカやサル同様、動物の中で「ヒトという名前を持ったそういう種族」なだけだ。

ニートの様子カタルシス願望なども、ここで書いたような生命力の問題が関係してるのかも。

エコロジーと終末論

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