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2007年6月

2007年6月18日 (月)

文明と生命力の使い道

BGMはこれがいいかな・・・

「生命力」と聞いて何を連想するだろうか? 若葉が芽吹く様子。健康を回復していく様子。破壊された自然環境が回復していく様子、生き物が厳しい環境でたくましく生きている様子、種族の進化etc・・・
生きているものには、必ず「生命力」と呼べる様な何かが潜在している。無論人間にも。
生命力は単に肉体的なものでなく、知恵、直感、分析力、判断力、気力、才能、素質、運、勇気・・・生きることを助ける力全て。

大昔、人間は野生動物だった。私達が当然知っている知識や技術もなく、生活は不便で大自然での生存は厳しい。その代わり、現代人よりもたくましい生命力を持っていた。「野生の勘」とでも言うべき生存本能から来る直感力も、今よりずっと優秀だった。
食べ物を得る、良い住処を得る、危険を回避する、敵に勝つ、体を回復させる、伴侶を見つけて子孫を生み育てる。人間も他の生き物同様、己の生命力をフルに発揮出来たとき、本能的に幸せを感じていた。野生動物だった頃、生命力の形態はとてもシンプルだった。だからって不自由しているとは思わなかったろう。

やがて人間は文明を作るようになった。農耕や牧畜のほか、様々な「職業」が都市部から生まれた。野生時代には必須の「本能的な直感力」は徐々に薄れ始め、一部の「素質」ある者達が宗教的指導者や占い師になってその本能的役割を負った(一部では迫害もされたが)。
収穫の安定を図る、家畜を増やす、家を繁栄させる、自分の仕事を成功させる。自分の仕事が他人を助ける。産業や交易で栄える。・・・領土を広げる。
時代が進むにつれ、生き方の種類が増えるにつれ、生命力の形が細分化していったが、どういう形であれ、自分の生命力が有効に発揮出来た時、ヒトは幸せだった。本能がそれを知っていた。
当初。自分の生命力を更に効率よく発揮し、生命力の可能性を広げるために、人々は文明というツールを作った。強大な帝国が生まれ、学問と文化が華開いた。学問や文化も人が生命力を発揮した例だ。その分野で己の生命力をフルに発揮出来た時、人は本能的な幸せを感じていただろう(本能といものを動物的な部分のみに限定せず広義にとらえて)。

現在。先進国と呼ばれるエリアにおいて、生活はとてもとても便利になった。生存が楽になった。その分、あまり生命力を使わなくても済むようになった。、「本能的な直感力」は科学的根拠がないので存在を否定された。けれど最近になって、否定したはずが何故か不思議な魅力を持つようにもなっていった・・・
人々は生活の便利さ(文明)を維持するために毎日働く。その生き方は、自分のなかにある多様な種類の個性ある生命力のうち、ほんのわずかな部分しか使わずに生きるということだった。日々「生命力をあまり使わないことが前提の生き方」は、裏を返すと己の色々な生命力を使って「本能的な幸せ」を作る機会も少ないということ。そういう発想がひらめきにくいってこと。人々が「豊かになったけど、何か心が満たされない」と訴え始めたのは、いつの頃からだろうか? ヒトの本能は、「幸せ」を感じているだろうか? 文明を「生命力を代替する」ような使い方をするということは、本能から見ると「(生命力が)文明を使うんじゃなくて、(生命力が)文明に使われている」ように見えるのかもしれない。使う機会の無い生命力は、抑圧されていく・・・
(占いの利用客で、『自分でなく占い師に叶えてもらう・解決してもらう・決めてもらう。』と最初から自分の生命力を使わず占い師に全てを代行させる前提の発想になってる人も多い。恐らく、宗教や精神世界の分野でも同じだろう。占い依存症は文明病なのかもしれない)
これは旅行記最終回でも少し書いたが、己の生命力を使わないでいると、、「うまく生命力が引き出せない」「自分の生命力が分からない・使い道が分からない」「どうしたら自分の生命力が使えるのか分からない」なんて事態も発生する。野生の時代なら、あまりに危険すぎる事態だ。「自分の生命力を見失った」んだから。しかし今は便利な世界。別にそれでも生存に支障はきたさないので、そんな事態が起きても気付きにくい。その代わり、いつの間にか己の多様な生命力が抑圧され、いつの間にか本能的な違和感や不安感や閉塞感が無意識に積もって「心」の領域に反映される。
私が旅したチベット、インド、ネパール、雲南。現地の人達は日本人より生命力を使う。特に遊牧民の生命力は凄かった。苛酷な環境で、不便で、お風呂もなく、そう良い物も食べていない。けれど、皆いい表情を持っていた(参照)。訪れたどの場所でも皆様々な問題を抱えてはいるが、多様な生命力を有効に発揮することで得られる最も基本的な幸せは知っているようだった(先進国でスローライフが流行ってるのは、彼らのような生き方を懐かしんでいるからか?)。

「私達も生命力のために文明を遠ざけて彼らのような生活をすべきだ」と言うつもりは全くない。ただ、己の中に潜む多様な生命力を自覚し、発揮し、有効に使いこなす発想はあってもいいと思う。忘れ去られ、有効活用していない生命力が、一体今どれだけあるんだろう。
文明の便利さを、「自分の生命力を省略」するために使うか、「自分固有の生命力をフルに活かす(生命力を後押しする)」ために使うかで、だいぶ違ってくる気がする。文明に自分の生命力を代替・省略させず、文明を「自分の生命力を活かし、生命力の可能性を広げるためのツール」として使いたいものだ。文明が未発達だった時代には原始的な目的に使われていた生命力も、便利になった現代ではまた別の生かし方が出来るような気がする。
どんな生命力の使い方をしようと、どのような生活形態をとろうと、どれだけ巣作りが発達しようと、私達はアリやミツバチやイルカやサル同様、動物の中で「ヒトという名前を持ったそういう種族」なだけだ。

ニートの様子カタルシス願望なども、ここで書いたような生命力の問題が関係してるのかも。

エコロジーと終末論

2007年6月14日 (木)

旅の後で描いた絵

女の子バージョンと男の子バージョン。別々に書いたものをわざとつなげてみた。幅が微妙に足りないので別窓で。

このイラストを見る

BGMはこれ

チベット、今回も色々ありがとう。

占い師の旅路~雲南省・三江併流~その10

さあいよいよ最終回。今回の旅行記の中で、一番強力な電波が出ると思います。

早朝の麗江
朝、モーニングコールよりも早く起きて麗江旧市街を散歩。夜の喧騒とは打って変わって静けさが心地よい。本日行く予定の玉龍雪山(メインストリートから見える)の周りには、雲ひとつないほどの良い天気。おや、早起き観光客に道を尋ねられた・・・と思ったら「玉龍雪山へ行きませんか?」という地元のツアー会社の営業だった(笑)。丁重にお断りをして先へ進む。旧市街中心に位置する広場、四方街に出る。昔は茶馬古道を通る物資が集まって市が開かれると、四方街は芋洗いのように人が集まっていたらしい。
麗江、朝に見れば古都の雰囲気がちゃんとある。水路には鯉。玉樹というバラ科の木の花が美しい。水汲みをする人、よれよれの犬、ナシ族のおばあさん、肉まん(?)を食べながらチャリンコを引きいて通り過ぎるお兄ちゃんetc・・・
気に入った。昼と夜の麗江は「騒がしい軽井沢」のような有様だが、朝はいい雰囲気。後に、ガイドのリンダさんも「私も麗江は朝のほうが好きです」と言っていた。麗江はここ数年で人気の観光地となり、ナシ族だけでなく漢族(いわゆる中国人の95%)の店も沢山出来た。街は急激に変わってきてしまった。昔から地元にすんでいる人、特にお年寄りはどう感じているんだろう?
散歩の帰りにナシ族のお焼きのような食べ物、「ナシバーバ」の甘い味の方を買った。5元。リンダさん曰く、ぼったくる所は8元するんだとか。だから私の買った店は「Good job」なんだとか。次の日も同じ店で塩味の方を買った。一元負けてくれた。この店の売り子の娘さんはナシ族で、彼らにとっての伝統的な「美人の条件」が見事にそろっていた。
麗江に泊まった2日間は、早起きして静かな風情を味わうことにした。町外れまで歩いた。始めて麗江の存在を知ったのはある写真集。そのときは、「何だか日本に似ている」と感じたが、現地に来て見れば街はやはり中国っぽさの方が強い。ナシ族のライフスタイルも中国人に近い。日本に似ていると思うなら、木を多用した家の色や控え目だが細やかで勤勉な性格のナシ族の皆さんの印象が合わさると日本人としては少し親近感が持てる、といった辺りか。
麗江は沢山写真を撮ったので、まとめてこちらでご覧いただきたい。

玉龍雪山
朝食はコンチネンタルスタイル。久しぶりにおいしいコーヒーとサラダ、ハムエッグ、パンケーキを食べた。今日は玉龍雪山の見学スポットである「雲杉坪」と白沙村、玉泉公園へ行く予定。
天気は最高。雲杉坪のある国立公園に向けて平原を走るバスからの眺めもばっちりだ。日差しの強さでここが標高2500mの高原だと教えてくれる。国立公園入り口で電気自動車のバスに乗り換える。ここで、湖南省から観光に来たテンションの高いおじさんと仲良くなる。私が日本人と知ると始めは静かになってしまったのだが、中国語が通じると知って息を吹き返して熱心に話し始める。どうやら、湖南省の名所「月亮タワー」の良さを日本人にも知ってもらいたいと力説していた。実はこのおじさん、その「月亮タワー」に住んでいるらしい。「もしここへ旅行する時は連絡しなさい」と日記帳に住所まで書いてくれた(笑)。
バスを降りると今度はリフト。3100mまで上れば雲杉坪。すでに観光客で長蛇の列。中国人のほかに、タイ人の観光客もいた。雪の降らない国の彼らにとって、頂上に万年雪の降る玉龍雪山周辺は「寒い場所」というイメージがあるらしい。しっかりと防寒具を着込んでいた。リフト乗り場の案内板に書かれた日本語は面白かった

雲杉坪は予想に反して寒くはなかった。民族衣装を着せて写真を撮る「コスプレ写真業者」の勧誘がしつこい。実際、繁盛しているから、商売熱心にもなる。私達はただ景色の写真()だけを撮って済ませた。
雲杉坪自体は少々騒がしい撮影スポットに過ぎないと感じたけれど、下りのリフトから見えた風景が良かった()。

白沙村
昼食を済ませて白沙村へ。入り口にナシ族の象形文字、トンパ文字が展示してあった。「トンパ」は「東巴」とも書く。
トンパ文字は現存する最古の象形文字で、ナシ族の中でも「トンパ」というシャーマン達に受け継がれた文字。2003年にはユネスコの「世界の記憶事業」に登録され、デジタル保存が進められている。写真はこちら
「眠る」や「夢」という字が興味深い。「霊(霊感)」に対応する額のチャクラから何かが出てる
なかなかカワイイ文字だが、1400種類ある上に同じ文字でも微妙な形の違いで文法が変わるなど、読み方には複雑な法則がある。トンパ達はこの字をナシ族の独特の紙に書いて様々な記録を作った。紙は漢方薬にもなる苦い木の皮で出来ていて、虫がつかず、100年はほぼそのままの状態で保存できる。現在、トンパ文字を読める人は少なく、トンパ文化の継承者もわずか。麗江市は町興しもかねてトンパ文化の復興と保存にいそしんでいる。
白沙村はその昔、麗江一体を支配したナシ族の「木氏」が麗江の街を作る前の勢力中心地だったそうだ。そのためか、古い建築や古い壁画が残っている。特に壁画が有名で、チベット仏教、ペー族の観音信仰、道教など、近隣の異なる民族が信仰する神仏の絵がまとめて壁画になっている。文革の時には白いペンキで塗りつぶされてしまったが、後で上に塗られたペンキをこそぎ落として復活させた。壁画のある寺院の建物は、見た目が少し東照宮に似ている。釘を使わず木を組み合わせて作るタイプの建築で、地震に強い。もし地震でちょっと崩れたら、また組みなおせばいいだけなのだそうだ。
白沙村は多くのツアー会社が日程に入れる場所なので、入り口には土産物屋の露天がにずらりと並んでいる。藍染屋の工房もある。それでも村の雰囲気はまだ残っているのが救いだ。子供たち、縁側でマージャンをするお年寄り、昭和みたいな風景・・・詳しくはこちらで。
白沙村の公衆トイレは超デラックス。もちろん水洗。オマケに大理石を使っていて、待合室まである。そして、自動センサーの蛇口は、水が出ない。

玉泉公園
この旅行記のクライマックスであり、この旅行記の締めくくりには、この玉泉公園での出来事がふさわしいだろう。今までにも超個人的・内面的・神秘的(?)な出来事をいくつか書いてきたが、これもその一つだ。この旅行記は、半分以上自分自身がこれらの出来事を忘れずにしっかりと覚えておくために書いているようなものだ。読者にとって必ずしも面白く、読みやすい旅行記ではないかもしれない。しかし、退かぬ媚びぬ省みぬ。

玉泉公園は麗江の水路の水源になっている泉がある場所。丁度雲が出てきてしまったが、この泉に玉龍雪山が写った写真をよく見かけた。
公園内には、「トンパ文化研究所」がある。そこで日本語がまあまあ分かるナシ族の若者(学生?)が色々レクチャーしてくれる。トンパ文化(=ナシ族の伝統文化)が廃れつつあり、それらの保存と後継者育成のため、現在現役のトンパ約8名がボランティアで「トンパ・スクール」にて教鞭をとっている。そのうちの何人かは「大トンパ」といわれており、重要文化の継承者として尊敬され、人間国宝になっている方もおられるそうだ。麗江の旧市街に「トンパ宮」というナシ族のショーを見せる場所があり、現在はそこに出演してトンパ文化を広めているトンパもその一人らしい(次の日見に行った)。
「トンパ」はナシ族の言葉で「智者」を意味する。まさしく「賢者」のような役割で、各種儀式を執り行うシャーマンであり占い師であり、医者やアーティストでもあった(トンパ文字を思いついた人は凄いアーティストだと思う)。一人前のトンパになるには文字をはじめ、様々なことに精通していなくてはならないので、修行に長い時間がかかる。基本的に世襲制で、一番優秀な子供だけがトンパになる。レクチャーしてくれる若者は、研究者にはなれてもトンパにはなれないそうだ。レクチャーの最中、沢山の雉の羽がついた帽子を被った一人の大柄な老人が、慣れた様子でしずしずと入ってきて奥の立派な席に音もなく座った。私達の方には一瞥もくれず、ただ静かに前を向いて自分の役割と来るべき時を待っていた。
最初はレクチャーに気をとられ、「観光客向けのデモンストレーションか」くらいにしか思わなかったのだが、徐々にその不思議な「静かな存在感」に私の意識のどこかが反応し始めていた。何だろうこれ? しかもその老人の不思議な顔・・・誰かに、似ている。・・・やがて、私の無意識はそこに座る存在に対して「ただのデモンストレーション役トンパ」から認識を改めた。
いや違う。これは・・・・・・・・・・・・【トンパ様】だ。・・・・・・・・・【トンパ様】がいるんだ。
いつの間にか湧いていた無意識レベルの畏敬の念により、「様」付けで認識していたのだが、不思議なことに、この時点では私はそんな自分の畏敬の念を自覚していなかった。
トンパ文化についてのレクチャーは続く。トンパ教についてのことから今度はトンパ文字の文法や読み方について。その前置きとして、後で自分の名前と好きな言葉や願い事をその場でトンパ様がトンパ文字で書いてお土産にするサービスの宣伝があった。100元。掛け軸にしたものは200元。高っ!「売り上げはボランティア運営のトンパスクールの運営費になります」ありがちなパターン。
トンパ文字の読み方(うろ覚え):
トンパ文字は漢字同様、「太陽」と「」を表す文字がそのまま暦の「日」と「月」としても使われる。また、「あなた」という字(単語)の右手の先が上向き曲がっていると「あなたは~を願う」という文法になる。
さらに、同じ文字でも、文脈によって読み方や意味が変わり、しかもその上、「右から左に読む」などといった「読む順番」が必ずしも決まっていない。同じ意味の文字でも、異体字がある。もはや暗号だ。

さて、私はといえば、ナシ族の若者が懸命につたない日本語と英語でレクチャーしてくれているのに、途中から上の空だった。
原因は、さっきの宣伝で聞いた「掛け軸」だ。よりによって高い方の掛け軸!
200元という値段は、中国の物価から見ると決して安くなどない。中国人のビジネスマンが利用する安宿なら一泊30元。両替した元だってそれほど沢山残っていはいない。今後の日程を考えると、無駄遣いはしたくない。それに、心の片隅に住む【黒AYA】が、「そんなもん200元も出して買ったらバカな観光客」と囁いていた。しかし・・・
私は生まれてこの方、「掛け軸」なんぞに興味はなかった。今だってない。話を聞いた最初もやはり、そんなものには無関心だった。それなのに、後からだんだん、何か気になる、ムズムズするような感覚になってきた。
この時やっと、自分が【トンパ様】という奇妙な畏敬の念を持っていることを発見した。まさか・・・そんな気分になるなんてね。私は今でも信心深い人間ではない。
レクチャーが終わった時、私は掛け軸をオーダーしていた。「日本円使えますか?」・・・OKが出された。
掛け軸の言葉は、「いい占い師になりたい」。
レクチャー役の若者は私の素性を聞いてびっくりした「ヘェェ!?」。他に2人いた同年代の男女も同じ反応。
この言葉を書いてもらおうと決めた理由。それは、書き手が伝統的にスピリチュアルな役割を担っている【トンパ様】だからだ。私は机を前に静かに鎮座ましますトンパ様を見た。依然として不思議な雰囲気をまとっていた(後に、知り合いのチベット人修行者と似ているのだと判明。ナシ族とチベット族は同祖)。このトンパ様なら、(同じ分野に携わる者として)掛け軸に込められた言葉の意味を何となく分かって下さるかもしれない。
トンパ土産、普段ならばせいぜい単語(願い事なら『合格』とか)を書く程度らしいのだが、短い文でも可能だろうか? ナシ族の若者がトンパ様に事情を説明すると、快く書いていただくことになった。事情を聞いたトンパ様は、掛け軸に選んだ言葉の意味を分かってくださったようだ。静かにうなづき、親しみのある微笑みを浮かべた。
掛け軸を書くトンパ様
掛け軸が完成した。文字数は5。書かれたトンパ文字の説明を一つ一つ聞くと、奥が深い。中でも興味深かったのは、「占い師」に相当する文字。この文字は2つの部品(記号)から成り、それぞれ
1:「沢山の情報」と、人がその一部を手に取り2:「読む・数える・ひも解く・ピックアップする」姿が合わさって「占い師」という文字になる。・・・まるでアカシックレコードや集合無意識のデータを検索して読み取る様子を表している様だ。「巫女」という字も「占い師」と似ている。ただしこちらは文字に「沢山の情報」に相当する部品がない。その代わり、女性であることを表す帽子が頭に載っている。「お告げ」を得るタイプの女性が巫女さんということのようだ。
そして、とてもうれしかったことは、トンパ様は「いい占い師」というところを、「最高の占い師」として書いてくれちゃったことだ。英語ではっきりと「best」と説明され、中国語では「最好的」だった。もはや恐れ多い。
掛け軸の文字を直訳するとこうなる:「あなたは最高の占い師になると願う」
出来上がった掛け軸を前にしてトンパ様と記念撮影。トンパ様が「もっと近くへ」と私を引っ張って、2人して満員電車の乗客の様にぴったりくっつきながら写真に納まった。
正直、感動した。長い長い歴史の中でナシ族という一民族を導き、文化と叡智を継承して来た「トンパ」という職業は、今なお現役でその役割を担い、今でもナシ族達に尊敬されている存在で、私のような若造の占い師とは比べ物にならないほど偉大なはずだ。そんな【トンパ様】に励まされたことが分かった。こんな光栄なことはない。
私がなぜ急にトンパに畏敬の念を持ったのか。恐らくそれは、「トンパ」という職業そのものと、トンパが担って来た「歴史そのもの」に対する畏敬なのだと思う。私の遺伝子が、それを知っている。日本人にも、トンパのような役割が存在した時代があるから。

記念撮影の後、せがまれてナシ族の若者達(男2女1)の手相を見た。日本語がある程度通じるからやりやすかった。遊牧民のチベット族と違い、ナシ族は水の豊かな地に住む農耕民族。そのせいもあってか、彼らは皆日本人の手相と似ていた。生命線と知能線の始点が一致しているか、途中まで線が重なっているのだ(チベタンの場合は分離していることが多い)。3人全体の印象として、カパ系の体質(日本人に多い)で時には神経が細かく、繊細で控え目、といった感じ。日本語でレクチャーしてくれた若者はヴァータ・カパ体質で、子供の頃癇の虫が強かったようだ。トンパの仕事に「癇の虫取り」ってのはないのだろうか? 聞き忘れたのはちょっと惜しい。他には1人、3人の中で最も控え目で押しは弱いけれど、一番金運のいい手相の持ち主がいた(笑)。
「皆さんの手は日本人の手相とも似ていますね」と言ったら、「私も日本人が何となく好きです。性格に親近感を感じます」と言った若者がいた。日本語レクチャーの彼だ。これからも多くの日本人相手にがんばって欲しい。それだけでも日本語が上達するだろう。私が路上で人数をこなして占いを上達させたように。
そして、光栄にもあの掛け軸を書いて頂いたトンパ様のお手を拝見させていただくことに。先ほど手相を見た若者の一人がトンパ様に遠慮がちにだが「先生もいかがです?」と勧めたのだ。
何とも恐れ多いことだが、非常に興味を引かれたのもまた事実。わくわくして手を見せていただいた。うひゃー、凄い生命線! 手のひらを超えている。金星丘は生命力豊かに発達している。特にお腹が強いに違いない(金星丘は消化器系にも対応する部位)。3人の若者とは違って、生命線と知能線の始点は分離している。開拓運の持ち主だ。運命線も力強い。運命線を斜めに横切る障害線があるけれど、運命線はびくともせずにその先へと伸びていた。きっと長生きなさって素晴らしい人生と人々への貢献を成し遂げるお方に違いない。例え身体や運勢が瀕死になっても、不死鳥のごとく甦ることを手相が暗示していた(いや既に甦った後なのかも)。ある意味では、トンパの歴史の変遷そのものを象徴するような手相。
トンパ様は若い世代ほど中国語が達者ではないので、私とナシ族の若者皆で時折ジェスチャーを交えて鑑定結果をお伝えする。都市部のナシ族の若い世代は、もはやナシ語をしゃべれない。
「長生き」をお伝えするとうれしそうにニコニコした。「お腹が強い」と伝えると自分の太鼓腹を愛おしそうになでた。ジェスチャーで「弱った状態」と「元気に復活した状態」を示すと、うなづいた。
後でガイドのリンダ(トンパ様の生命線が手首の横まであると言ったら驚いてた)から聞いた話では、彼はもともと深い森に住んでいたところを、トンパ文化の復興と保存に協力を求められ、麗江にやって来たのだという。ふと、白水台に行く途中の広大な原生林が頭に浮かんだ。

掛け軸を買うのは正解だった。トンパ研究所での体験は時間にすると1時間ちょいでしかなかったが、今後に生かすべき非常に貴重なものになった。他にも旅行の間にはそういうことが幾つかあったのだが、あまりにも出来すぎていてちょっと信じられないくらいだ。掛け軸の入った筒を両手にしっかりと抱え、トンパ研究所の石段を下りながら私は決意した。
「私、『日本のトンパ』になる」
・・・「トンパ」と「トンパ文化」の叡智はナシ族の集合無意識が生み出した人々の「生きる力」をサポートするシステムでもあり、古今東西、様々な民族がその性質に合わせて独自のサポートシステムを作り上げてきた。健全に機能したものも、そうでないものあるが・・・
科学的先進国の日本では、現在そのようなしっかりとしたサポートシステムは存在していない。よく、「何を信じていいのかわからない時代」といわれているが、これは自分自身、ひいては「自分の生きる力(生命力)」をも信じられなくなっている結果でもある。自分がわからない。自信がない。自分の生命力(の使い方)がよく分からない・・・
ナシ族にとってのトンパやチベット族にとっての仏教のようなサポートシステムがない代わりに、日本では精神世界や占いの分野に人々の意識が向き始めている。この手の分野にナシ族にとってのトンパのような「生命力のサポートシステム」の機能を無意識に求めているように感じた。
トンパは人間が己の生きる力(生命力)を効率よくフルに発揮するための最も原始的な機能(をする人)のひとつだが、日本には日本に適した形での『トンパ』があってもいい。
それは「特別な人」がやるのではなく、先生、カウンセラー、セラピスト、ヒーラー、心理学者、医者、芸術家、ミュージシャン、占い師、スピリチュアル何とかなどなど、色んな肩書きの人々が自分たちの方法でやっていけばと思う。それに、凄いものからちょっとしたものまで、色んなレベルがあっていいと思う。そのほんの末席に、私も加わることが出来たら・・・
石段を下りきるまでの間に、そんな妄想が高速回転した。この妄想は、今でも気に入っている。

日本から数千km離れた雲南にて、超個人的・内面的・神秘的(?)な体験に励まされ、電波を受信し、妄想と決意と意欲を手土産に。
占い師は、帰ってきた。

占い師の旅路~雲南省・三江併流~ 


旅行記はひとまず終わり。それ以降の日程はごく普通の家族旅行でした(ということにしておこう)。占い師になることを許してくれた両親にプチ親孝行も出来ました。旅行の残りの写真はこちらで全部見れます。

2007年6月 5日 (火)

占い師の旅路~雲南省・三江併流~その9

次回でひとまず旅行記を終わらせます。雲南は他にも色んな場所に行きましたが、だらだらと全てを書いていたらきりがないので。いつか機会があれば(ネタ切れになったら)また書くかも知れません。
今回と最終回は、電波が垂れ流しです。何卒ご注意下さい。

徳欽~香格里拉
北京時間の7:00起床。北京よりずっと西の徳欽ではまだ薄暗い。部屋から金星が見えた。
ホテル前の路上に出る。誰もいない。寒い。空には月と金星だけが見えた。少し歩いてみると、犬の散歩をしている人と早起きのお年寄りが小さなマニ車を回しつつもにょもにょ言いながら通り過ぎていった。坂を下りてカーブを少し曲がったところで何気なく振り向くと、今まで雲に隠れて見えたことのなかった見事な雪山が見えた。これはホテルの非常階段で写真を撮ると丁度いいかもしれない。すぐにホテルに戻ってすでに起きていた両親にも知らせた。父がばっちり写真を撮った。私の携帯は高地の低い気圧のため、液晶画面に黒い点が日に日に増えていった。携帯の写真に黒い点が写ってしまわないか心配だったが、それでも撮り続けた(携帯で撮った雪山@ホテルの非常階段)。結局、この日低地に降りたら画面は元通りに戻った。
今日は2日前に来た峠を通って香格里拉に戻り、更にその先の虎跳峡を経て標高2500mの麗江に行く。チャオシンにはこれからも引き続き運転してもらうが、今日で現地ガイドのソナムともお別れ。前日の夜、ソナムは私の旅日記のノートにきれいなチベット文字で文章を書いてくれた。後に日本でチベット語と仏教哲学に詳しい知り合いにその意味を尋ねたところ、昔のチベットの偉大な仏教学者が残した言葉だった。「あ、深いな」と思った。何て書いてあったかは、秘密。正直に白状すると、難しすぎて理解し切れていない。
朝食は昨日と同じメニュー。お茶はガラスのコップに注いでくれる。今日、私のコップには茶柱が2つも立っていた。何かいいことが起きるかもしれない。
・・・そして本当に起きた。場所は、行きに雲で梅里雪山が見えなかった展望台(大きいバージョン)(携帯版)(おまけ)。
美しさで寒さを忘れた。ずっと天候が悪くて山の顔が見えなと思っていたら、雪化粧を念入りにしていたようだ。最後の最後にばっちり見させてもらった。日本人で短い期間内に梅里雪山を全部見れたケースは珍しいとのこと(そもそも日本人観光客が珍しい)。撮影地点と手前の集落の間には、1000m近い谷底がぽっかりと口をあけている。ソナムは全ての山が顔を出した梅里雪山を前にして、短くお経を唱えた。聖山カワクボに限らず、チベットエリアで高い山は神様や仏様だ。
このとき、チベット人は基本的に、「生命力」を崇拝しているような気がした。厳しい環境の中、暮らしに必要な雪解け水(水が貴重なので、まさに命の水でもある)をもたらす山は、生命力の象徴ではないだろうか? 文殊菩薩が象徴する「占いの力」や「知恵」もまた、生きることを手助けする力(能力)だから一種の生命力だ。「悟り」なんて生命力がなしうる究極の技なのかもしれない(※)。
「生命力」を偉大なもの、神聖なもの、有難いものとして崇拝することは、自分の中にある生命力をも鼓舞することになるのではないか。それどころか、「生命力を持っているものは何であれ神聖さを備えている」とさえ思うようになるかもしれない。 チベットには、「(自分を含めた)全ての生き物に幸あれ」という有名な祈りの言葉がある。チベット人が持つ古くからの信仰は、無意識のうちに自分達の生命力を鼓舞し尊ぶ手法でもあったのだろうか。多分、チベットだけじゃなく、色んな地域の伝統的な信仰は皆、最初はそういうものから始まったのかもしれない。もしそうだとすれば、自分たちが崇めているものが本当は何なのかをわかってさえいれば、ドグマチックな状態に陥ることが原因の様々な問題(今なお続く問題)は起きなかったのだろうか? 薄い酸素の中で、そんなありがちな妄想をした。
そんな時、また昨日の山で来たようなインスピレーション(他人が見れば電波)が来た。
「占いの力は一種の生命力」「生命力を活かし、発揮できることを本能は『幸せ』と認識する」「皆が生命力を活かせる様に私の生命力を活かせたらいいな」「私が自分の生命力を活かした時、他の誰かの生命力が活きやすくなれば」「そうすると、他人も私も一挙両得」・・・言葉にすると順番に言うしかないが、実際は同時にデータが来た。
山を撮影後、私はご機嫌のあまりスキップで車(ワゴン)に飛び乗り、入り口の天井部分に前頭葉の辺りを強打した。確か学生時代にネパールを旅したときも、これと全く同じ事をした記憶がある。
行きに通った峠のがたがた道も一面の銀世界だった。そして2本目の茶柱が暗示していた(?)もう一つのラッキー。それは、そんな峠の道が、昨日の夕方見た白茫雪山の真っ只中を通っていたことがわかったこと。行きは霧で全く何も見えなかったが、実はとんでもなくいい所を走っていたのだ(写真
ここで、私達は今までの生涯で最も高い地点(標高4000m以上)での「ナチュラルトイレット」を経験した。いい経験だった。旅行記の最初の方で載せたソナムとチャオシンのツーショットは、ここで父が撮ったものだ。
狭いがたがた道、走っているのは私達だけかと思いきや、観光バスと派手なトラックに出くわす。こんな場所だからすれ違うのも一苦労()。
峠を越えれば後は下っていくだけ。雲海の波打ち際を潜り抜け、山里に出る。常世離れした清冽な銀世界から、色のついた人間界の景色になる。気温も上がる。やがて香格里拉に到着。街の写真()を撮り、地元で大流行りのパン屋兼カフェ(ベーカリーカフェじゃなくて、串揚げも売ってる)で休憩する。オレンジ味の生地に安い菓子パンに入っているようなフラワーペーストのチョコクリームのついたケーキが懐かしくておいしかった。串揚げ は砂肝や餅を素揚げにしてもらい、辛い粉をつけて食べる。これもいけた。

虎跳峡~麗江
ガソリン補給とタイヤ交換を済ませてシャングリラを発つ。しばらく走ると長い下り坂。風景がチベット族の家からナシ族の家に変化する。ナシ族の家の特徴は魚型の板が屋根から下がり、壁には波やカエルなどの水にちなんだペイントが描かれていることもある。風景がそうなって来るとハパ雪山が見えてくる。木も沢山生えている。とても暖かい。朝凍えていたのが嘘みたいだ。更に下って虎跳峡についた頃にはとっくに防寒具とセーターを脱いで長袖のTシャツ一枚になっていた。
厳しい寒さには強いチベット人、暑さには弱い。運転席で直射日光を浴びるソナムはため息をつく。
ソナム「Today is very hot・・・」
・・・その登山用フリースを脱げば少しは涼しくなると思うよ。

虎跳峡はハパ雪山と玉龍雪山との間にある峡谷で、世界一深い谷だと言われている。名前の由来はこの写真の真ん中の大岩を飛び石にして虎が川を跳び渡った、という言い伝えから。切り立った崖が首が痛くなるほど上まで続いている。ソナムの説明では、高低差は最大のところで2000mにもなると言う。川の流れは凄まじい激流。中国の川は半端じゃない。幾つかの大岩の上を怒涛のごとく流れ、「水ってこんな動きするんだ」と感心するような複雑な流れが川の中にいくつも出来ている。落ちたら溺死する前に水流で岩に叩きつけられて死ぬタイプの川。日本の海岸の岩場でもたまに見られる「潮吹き」のような現象が、真ん中の大岩の近く、流れが別の流れの下に一旦深くもぐりこむ境目の辺りから吹き上がっている。吹上げが速すぎてあまり「撮影できた」とはいえないが・・・
虎跳峡の見学を終えると、ソナムとお別れ。虎跳峡から路線バスに乗り7時間以上もかけて香格里拉に帰る(路線バスだとんでもない大回り)。彼には濃い体験が出来たことをとても感謝している。面白いところも個人的に気に入った。彼が写っている写真はあとでメールで送ってあげよう。ソナムはみんなと短く握手して背を向け、振り向かずに手をひらひらさせて私達の視界から消えていった。
「おおざっぱで飾り気のない自由な風」。今まで私が現地のチベット人達からよく感じとるイメージを、彼も持っていた。

車は幹線道路を進む。雪山は見えても、もうチベットのような「高山地帯」ではない。ハパ雪山を通り過ぎ玉龍雪山の麓に入り、農村抜け、車は夕方に麗江に到着した。ここで、麗江の英語ガイド、ナシ族のリンダさん(外国人が名前を覚えやすいようにガイド名としてそう名乗っている)と合流。英語の発音もきれいで、しっかり者の美人さんだ。お顔を撮るのを忘れていたことが悔やまれる。
麗江古城の入り口はものすごく騒がしくて、古い建物が容赦なくネオンまみれになっていた。あちこちのバーからカラオケが鳴り響き、遅くまでやってる土産物屋からも大音量の音楽が流れてくる。
・・・これがナシ族の古都? ああイメージが「古都」から「バカ殿様のセット」に変化してゆく・・・大丈夫だろうか?「観光シーズンの麗江は毎日こうなんです」とリンダさん。日本で春の観光シーズンといえばゴールデンウイーク(だからこそシーズンを避けて早めに旅行したつもりなのだが)、しかし中国では、ゴールデンウイークの前に遊んでお土産を買って実家に里帰りをする習慣があるそうだ。なんたること! わざわざ一番混む時期に来ちゃった!
 
夕食後に古城(旧市外)をほんの少しだけ散歩すると、うるさいながらも何となく情緒は残っていた()。これは早朝に期待しよう。
この日は早めに帰って日記をつけて寝た。

次回、最終回の予定。

※妄想の補足(物好きな人向け):
チベットだと生命は輪廻するとされている。だから身体は死んでも生命は死なないし、受精卵が細胞分裂を開始する前から生命は存在している。輪廻自体が生命活動だから。そしてその活動を司る力もまた生命力。そして、チベットでは「輪廻の繰り返しを通して修行が進むと、そのうち悟れるかもしれない」という。一般的に仏教では「輪廻しない方が(生命活動しない方が)良い」というイメージがあるが、「悟り」を「生命が輪廻(=生命活動)を繰り返すにつれてレベルUPすることで可能なこと」とすると、悟りを開くことで輪廻転生をしなくなる「解脱」という生命の最終形態に至る(生命力の役割が終わる)その時までは、生命活動とその源である「生命力」はとても大切なものでもありそうだ。平たく言うと、
「自分が修行して悟るのに必要な分の輪廻(=生命活動)を終えるまでは、生命力にがんばってもらわないと」

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