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2006年8月

2006年8月31日 (木)

マドモアゼル・ぺシエ

                       夏休みも最後の日ですね。
Peach_3    

2006年8月28日 (月)

冥王星の事件を勝手に解釈

※長い上に怪しくてマニアックな話です。電波に見えるかもしれません(たぶんそうです)。免疫のない方はご注意下さい。

BGM 


Solarsystem_2
占星術のやり方(手法)には何の影響もないと書いた冥王星の惑星降格事件。では、今回の事件そのものにはどのような意味やテーマが隠されているのだろう? ちょっと妄想を繰り広げてみた。

まず、冥王星が1930年に発見された時のこと。
人類が冥王星を発見したのと同じ年、この世に核兵器の理論(仮説)が誕生した。
同じ年、ドイツの占拠であのヒトラー率いるナチ党が躍進。多数の投票数を獲得。
そしてこの辺りから始まる時代の流れを見ると、1930年代の終わりには第2次世界大戦がある。
冥王星の占星術的意味には「死」「破壊」「究極」「極限」「極端」「原子力」といったものがある。また、「死と再生(生まれ変わり)」という意味もある。タロットカードなら、「(最後の)審判」に対応するという説もある。いわゆる「ハルマゲドン」ってやつだ(軌道が楕円なので、ハルマゲドンブームの1999年までは海王星よりも地球に近かった)。
そして、この冥王星「 Pluto」、ローマ神話では冥界(目に見えぬ死の世界)の王の名前。そしてプルトニュウムの語源でもある。 そんな由来で冥王星の意味には「原子力」がある。
ちなみに、当時冥王星の発見者(某国出身)が「冥王星を惑星にしろ」と学会でかなりごり押ししたそうだ。 そして76年後、今回は同じ国の研究者達が「惑星から降格させろ」と強く主張。
その某国とは、実は原子力兵器を最初に使った国。

次に、土星より外の惑星、「トランスサタニアン」と呼ばれている一連の惑星について。
トランスサタニアンは天王星、海王星、冥王星がそれに当たる。
占星術の世界において、トランスサタニアンとそれ以外の天体との違いは、土星までの天体の意味を私たちが普段生活している通常の意識(顕在意識)の領域としているのに対し、それ以降の惑星を無意識、潜在意識を司る意味を持つものとしていることにある。そのため、占星術の世界観では土星を境にしてその先を超自我的(=トランスパーソナル)な領域になっていると言える。土星を境に外にへ向かうにつれて、どんどん深い意識領域へと進む。
「変革」「覚醒」「革命」「発明」「独創的」といった意味のある天王星は個人の無意識を担当。
「幻想・幻覚」「夢」「霊感」「占い」「未来のビジョン」といった意味のある海王星は、個を超え個を飲み込んで更に大きい集合無意識を担当。時代の傾向・風潮も担当する。
そして先ほどの死に関する意味を持つ冥王星は、個を超え、集合無意識よりも大きく、それを飲み込んだ更にその先の、「肉体を持っては到達できない、私たちから見て究極的に深い深い意識の世界」を担当している。
これらの意識の領域はそれぞれ明確な線引きがされているのではなく、繋がりがある。ちょうど色のグラデーションのように移り変わってゆく感じ。
ちなみに、天王星が発見された1780年代はアメリカの独立やフランス革命の時代。発明の観点では熱気球で初の有人飛行に成功している。「人が初めて空を飛んだ」ともいえるだろうか?
海王星が発見された1840年代は、交霊術・交霊会がアメリカで生まれ、後にヨーロッパで大流行する。やがてその流れは19世紀末に知識人たちの間で西洋神秘主義を流行らせ近代西洋儀式魔術を生み出したり、明治の日本で「こっくりさん」になったりする。
「幻覚」という観点では、マリファナの精神に及ぼす作用が欧米で注目されていた。マリファナが主成分の薬も売られたり、パリではハシシを愛好するクラブも出来た。    

↓交霊術に使われる道具、「ウィジャボード」
Ouija

そして意識と無意識の境目になっている土星。
土星の占星術的意味には「厳格」「制限」「遅滞」「抑圧」「抑制」といったものがある。さて、土星の意味にもなっている「抑圧」「抑制」に焦点を当ててみたい。
意識していると苦痛を伴う記憶や思考や感情など、見たくないもの・認めたくないものを無意識的に意識から締め出し「除外」して、無意識の方へしまい込んでしまう(忘れてしまう)ことを、心理学用語で【抑圧】という。トラウマを負った人はしばしばそのトラウマ記憶を「抑圧」する。だから本人は抑圧したものを自覚したり認識したり出来ない。無意識領域に隠してしまったから。これを無意識ではなく、意識的に行うのが【抑制】。無意識にしまいこんだはずのものが、不意をついて意識領域へポロリと転げ出ることがあるからだ。

「抑圧」「抑制」を占星術の世界観+今回の事件に無理やりこじつけてみたい。
トランスサタニアンを「無意識領域」あるいは「顕在意識外」とすると、土星は「無意識下への抑圧」という象徴になることもイメージできる。
トランスサタニアンの発見はその抑圧によって無意識領域に隠されていたものが意識領域にあらわになった状態。あらわになった結果、発見された時代の人々の無意識下(=集合無意識下)に抑圧されていたものが噴出し、何世紀も続いた封建主義に抑圧されていた民衆の、民主主義への目覚めによる革命があり、死者(霊魂)との交流や目に見えない世界への興味がうまれ(キリスト教に抑圧されていたオカルトの開放)、やがてナチ党が大衆に指示され(集合無意識下に抑圧されていたコンプレックス/暗い衝動の解放)、世界大戦が起き、結果的にはホロコーストも核兵器の使用も起きた。今までの歴史上、類のない規模で人々の意識が変わり、冥王星発見当時から始まった流れでは歴史上類のない規模で人が死んだ。
もちろん人類が発見する以前からトランスサタニアンは存在していて地球に影響を与えていたのだろうが、人類が顕在意識のレベルでその存在をしっかり確認したために、今まで潜在意識(無意識)レベルで存在していた天体の影響力が、顕在意識レベルでも表出した、という象徴的な出来事が起きた感じがする。まるで「抑圧に気付いた」ようなイメージ。「抑圧」も、それに初めて気付いたときが一番精神的影響も衝撃も大きい。Maiosei01

さて、抑圧していたものが噴出して良かった部分もあり、困った部分もある。困った部分は、また抑圧したくなるもの。しかし、一度意識領域にあらわになってしまったものは、無意識的に隠蔽する作業が出来ない。そのため、意図的に意識から締め出す作業を行おうとしても不思議はない。これは「抑圧」ではなく、「抑制」である。どちらも、意識と無意識の境目にある土星の持つ意味だ。
冥王星の惑星除外によって「冥王星」は教科書からも消え、特に興味のある人以外の一般大衆からは「忘れ」られてゆくだろう。この「忘れる」ことこそ、意識から締め出され、「除外」されるということでもある。除外されたものは、また無意識にしまいこまれ、「抑制」が完了する。冥王星は「抑制」された。

抑制され、意識から意図的に締め出されたもの。それが、あの死の星冥王星。
いまのところ、それが平和(核・原子力の締め出し等)を暗示するのか、それとも、目に見えない深遠なる魂の世界とのつながりを断ち切り、死からも目をそむけて刹那的に生きる傾向を暗示するのか、はたまたそれとは真逆に目に見えぬ世界に対する人々の意識が変化して「死」や「生命」の概念が大きく変わるのか・・・・・・いろいろと妄想は尽きない。人類最初の核使用をした某国に限って言えば、かの国の研究者達が冥王星降格を強く推したのは、かの国が「あのことを忘れたがっている(あの記憶を抑制したがっている)」という暗示なのかもしれない。
しかし、どんなに目を背けても、どんなに意識から締め出しても、冥王星はそこに存在し続ける。「死」というテーマと同じく、意識から締め出すことは出来ても、誰も消し去ることは出来ない。抑圧・抑制されたモノは、削除されずに再び向き合う日が来るまで無意識領域で保存されるのだから・・・・

以上が電車乗ってて手持ち無沙汰な時に浮かんだ妄想。

冥王星山羊座入りとあの方の運勢

2006年8月24日 (木)

冥王星の惑星降格と占星術

※あくまでこの内容は、私個人の見解です。全ての占い師がそう考えるかどうかはわかりません。

今、国際天文学連合が「惑星」の定義を変えるとかなんとかで、もめていたらしい。惑星の数を12個に増やす案が出たと思えば紛糾し、二転三転して今度は冥王星を惑星から除外して8個にする案が出てきた。他にも、いろんな定義案や名称が出てきたらしい。冥王星の外側にも、同じくらいの大きさの天体が回っていることが定義変更のきっかけなのか。これからも太陽の周りを回る天体が続々発見されちゃったらどうしよう? どこまでが惑星? みたいな感じだろうか。
しかし会議の混沌具合を新聞で読むと、何というか、派閥争いや意地の張り合いみたいなモノもからんでるんじゃなかろうか? と意地悪く邪推してしまったりもする。
結局冥王星が惑星の定義から外れたことになったが、歓声とブーイング両方が聞こえたそうだ。

さて、この天文学的な惑星の定義が変わってしまうと、占星術(星占い)のやり方にも影響してしまうのではないかというと、ぜんぜん関係ない。
なぜなら、占星術は「占い」というまったく別の理論体系に属しているから。
ぶっちゃけ、科学(学会)と連動してなくてもぜんぜんかまわない。それが占い。
占いは、むしろ芸術とか文学とか、人文科学的なジャンルともいえる。非常に文化的な手法で人や物事を分析する。そして不思議なことに、それがまた人の心にはしっくり来ることもあるわけで。機械と職人技の違いみたいなものかもしれない。あるいは、人や物事を「科学者」が分析するか、評論家が分析するか、という違いかも。
占星術のやり方を大雑把に言うと、太陽の周りを回る天体や月や日の出の位置etcが地球から見てどの星座の方向にあるかをもとにして占いをする。
この占いをするモトとなる天体や日の出の位置のことを、「感受点」という。感受点とは、天空において占いをする時に意味を持つポイント(点)ということ。別にそのポイントが「惑星」だけに限られたりすることはない。月は重要な感受点だし、「ドラゴンヘッド/ドラゴンテイル」と呼ばれる月の軌道と太陽の軌道の交点も感受点として採用される。
感受点は、占いの結果をはじき出すのに有効な情報として採用されたポイントと考える。人によっては火星と木星の間に大量にある小惑星を感受点に含める人もいるし、昔の古典的占星術にならって土星までの惑星で十分占えるという人もいる。本当に解釈や手法は人によって様々。
ガリレオやコペルニクスなどの時代は、感受点になる惑星は土星までだった。そこから先は地上から見えなかったから。それでも占星術はしっかりと人々の間に根ざしていた。
感受点は結局、占いの解釈判断をする上で参考にする情報だと思っていい。感受点が多ければ、その分参考情報も多く、占いは細分化されるだろう。5ケタもある小惑星まで入れたら情報がすごく多くなるだろう(少なくとも私は混乱せずに占える自信がない)。感受点をいくつ用いるか、どの感受点を用いるかは、その占い師にとって最も腕を発揮しやすいやり方は何か、ということでもある。
冥王星が宇宙から消えてなくなるわけでもない限り、「冥王星」と呼ばれていた天体を感受点に採用して占っても、占星術的には全く問題がない。

天文学と占星術。全く異なる理論体系でありながら、人類が星を見始めた当初は2つに分かれておらず、ほぼ同じ学問だった(あのコペルニクスは占星術師でもあった)。
しかし時がたつにつれ、それぞれ文系と理系に進み、それぞれ違う自分の道を歩き出した兄弟のようなものかもしれない。

2006年8月22日 (火)

てれびちゃん

小説のあとがきは、どうあがいても青臭くなるので、載せない。

その代わり、最近描いたイラストでごまかしておきます。

Tv_tan

2006年8月21日 (月)

絵を描いてる時の君が好き⑤

『友達でもいいんじゃないかな?』
もし、仮に二人が既に結婚し夫婦になっていて、家族になっていて、そして子供が生まれていれば。
互いの共通するテーマは絵のこと、子供のこと、家族(家庭)のこと、ライフスタイルのこと。最低四つにはなるだろう。生きがいは、もっと広くなる・・・。そしたら絵と恋心の二つのコードで寄り合わされた今の絆以上に、たくさんのコードがより合わさって、とても太くて強い接続が作られるに違いない。夫婦仲が今みたいに良ければ(多分良いだろう)、別れる必要はないなと思う。でも今は・・・・・・別に「恋人」じゃなくてもいい気がする。付き合ってなかった頃だって、絵のことでは今と同じくらい意気投合できていたのだ。お互いの絵で心地よくなることは、いつでもどんな時でも出来たのだ。A子は、B太に対する感情が、ときめくような感情よりも、もっと静かで安定した友情と敬意に変わっていくのを自覚していた。「大事な相手」であることは、今も昔もこれからも変わらない。B太の方はどうなんだろう・・・・・・?

「私たち、そろそろ友達同士でもいいんじゃないかな? ・・・友達同士の方がいいんじゃないかな?」
ある日、隣で寝ているB太にA子が言った。B太はもぞりと寝返りを打ってA子と向き合った。
「嫌いになったわけじゃないのよ。ただ・・・・・最近私たちが盛り上がるやりとりって、一般的なカップルっぽいことしてる時よりも、絵のこととか、感性に関することで盛り上がる時の方がやっぱり多いでしょ? ベタベタくっついてるわけでもないし、どっちかって言うと、親友同士で盛り上がるのに近いみたい。それなら、ムリに『恋人同士らしくしてなきゃ』って考えるよりも、親友同士の方が自然な気がするの」A子は自分の気持ちの移り変わりについても、率直に告げた。B太の中でも、性別に左右されない部分が好きだと言った。
B太はA子を見つめた。受身で優柔不断なタイプのA子が自分からここまではっきり言うのは珍しい(きっと『自分の絵』を描く以前のA子ならこんな態度はとらなかった)。今A子から聞かされた自分たちの傾向は、うすうす感づいていたことだから、ショックではなかった。
「恋人同士のままでも別にかまわないよ」
と、そのとき言おうと思えば言えたか? そう言えば、A子はまた優柔不断になるかもしれない。でも言わなかった。その方が楽だと気付いたから。「友達同士みたいだ」と言われたからといって今更意図的に「恋人らしさ」を演じても、マンネリ化するどころか、しらけるだろう。余計な気も使うし、疲れる。それでもムリに恋人同士を演じ続ければ、却ってテンションが下がり、友人ではなく恋人同士であることを証明するつながりは結局身体だけになってしまう。テンションを失った肉体関係は、一度でもテンションのある頃を知ってしまったからこそ・・・どこかがしらけたまま。この先もお互いが本当に価値ある関係になるには、もっと何か別の方法があるはずだ。A子の気持ちの変化は、B太にそう教えていた。そんな発想の切り替えをここですんなり出来る自信は全くなかったが。
未練は、ある。同時に、もしもA子が受身で優柔不断なのをいいことに、仮に未練だけでこのままずるずると関係を続けたって(続けられれば、の話だが)、必ず限界が来る。そうして別れたふたりが二度と親友には戻れなくなっていることもわかっていた。もつれたら、やがて摩擦でぷつんと切れる。その後二度と絆は結べない。さあどうする?
突然決断を迫られる事態は、覚悟や勇気などの心構えを作る隙を与えない。その分、決断のプレッシャーを作る隙も与えなかったのかもしれない。B太は思ったほど混乱しなかった。意外だな。結局、大切なものは何一つ失わないのかもしれない・・・
今ここでA子に同意すれば、自分が少しの間(絶望しない程度に)切なくて辛いだけで済ませられるだろう。二人とも本当に辛い結果になるより、よほどましだ。親友でも何でもいい。A子を失いたくなかった。交流を失ってはならないと、自分のどこかが告げていた。A子の女性的な部分だけでなく、性別に左右されない部分も、好きだったから。
不思議と喪失感はなかった。嫌われたわけではないと、わかるから。むしろその逆だ。少なくとも男の自分にとって、ライフワークである絵を通して結ばれた絆は、きっと単なるときめきで作られたものよりも深く強くなる。B太はそう自分に言い聞かせた。むしろ、付き合ったからこそ・・・その先の関係になれるのかもしれない。
そして、少しの間A子を眺めていた。優柔不断ないつもとは見違えるほどはっきりと告げた彼女は、自分を眺めるB太を穏やかに、しかし真っ直ぐ見つめ返した。とても神秘的に見えた。
こりゃダメだ。誤魔化そうが駄々をこねようが相手にもされないだろう。
・・・・・・このシチュエーションも、見納めか(きっと後で少し泣くぞ)。
沈黙がややあって、B太はA子の言うことに同意した。
A子は横たわったままにっこりと笑った。(よりによって、そんなにキレイに笑うなよ)
笑った直後が早かった。あれよという間に身支度をととのえ、トーストを焼き、コーヒーを入れる。
二人で黙ってそれをたべた。たべた後、
「・・・・・・それなら、これからもよろしく」「当たり前じゃん」

ドアの間からひらひらさせた手だけを最後に残して、A子は去っていった。
二人の恋は、その役目を終えた。

画家を目指している美大生のA子とB太は大の親友同士。まだまだ卵の二人は、将来は自分の「心地よさを創る力」を生かして、人々に作品で心地よくなってもらうという夢に向かって走り始めたばかりだった。二人に共通する目下の課題は、「次の恋愛をする」ということ。お互いに対して「いい人にめぐり合って、変な奴には引っかからなければいいけど」と、密かに心配しあう仲でもある。
                                                           
おわり

2006年8月15日 (火)

絵を描いてる時の君が好き④

BGM(右クリックで別窓)

回復したA子は、真っ白なキャンバスに向かっていた。
気持ちは、幸いなことに、不思議と穏やかだ。何かが描けると思うくらいに。
ずっとネグレクトしてきた私の創造性。私のインスピレーション。私にしか出来ないこと。あの日、B太のひらひらと振られた手が、自分で作り上げた「雲」を払いのけてくれたような気もする。その代償は高く切なく残念ではあるけれど(後で少し泣いた)、それでも最終的に納得はできた。これは無駄にしたくない。
B太とは週一のゼミで顔を合わせることが出来た。二人とも、昔と変わらず親友としてコミュニケーションがとれた。はたから見れば、今までと変わらないだろう。
濃い2Bの鉛筆でキャンバスに線を描き出す。今度こそ、自分の絵に素直になろう。自分に素直になろう。評価が怖いなら、どうしてもこき下ろされるのが怖いなら、提出しなければいい。評価のためでなく、自分のための絵にすればいい。ダヴィンチにとっての「モナ・リザ(私のリザ)」みたいなもの、と言えば余りに大げさすぎるけれど。
描きたいものを素直に描くことで、頭の中の完成予想イメージにわくわくしながら作業を進める。とても気持ちがいい。久しぶりの感触。B太に尽くすことで自分の夢を彼に重ね合わせていた時の舞い上がるような興奮とは違う。地に足の付いた、落ち着いているけれど軽やかで、しかも確実な心地よさ。自分で創り出せるこの感覚を、忘れていた。私は、自分の喜びをちゃんと自分で創れる。今感じてるような確実な心地よさを沢山積み重ねてゆくこと。積み重ねた心地よさが、やがて見る人を心地よくさせるモノに変身する。そんな魔術を身につけることが画家を目指す私の夢なのだと思った。だから、他人に夢を重ねて託してしまうことは、実際は夢への積み重ねを止めてしまうこと。夢や喜びが育ってゆくのを止めてしまう。
作業が進むにつれ、信じられないスピードで今までこわばっていた頭と心がどんどんほぐれていって、そんな風に思えるようになっていた。ある人を思うと、筆が進んだ。現時点で、その魔術を働かせることが出来そうな相手を、多分一人は知っている。見かねてネグレクトを警告してくれた人。
出来上がった絵は、色とりどりの花が咲く窓辺の花かごと、そのかたわらに寝そべってこちらを無邪気に見つめる黒い子猫。そんな少女趣味的な絵が、本当はずっと描きたかった。
心地よく描けたこの絵は、予想通りある一人の人間を心地よくさせた。「お、キタコレ」というのが感想の第一声だった。あとはただ奇妙なほどにやにやするばかり。その様子を見て首をかしげながらも、B太が絵を気に入ってくれたようなので、A子は更に心地よくなった。他の友人達の受けもそれなりに良かった。再び、「自分の絵」が描きたくなった。それで、「心地よさを元手に、新たな心地よさを創り出し、循環させる」ということが将来画家になったら不可欠なことなのかもしれないと思った。
この体験に勇気付けられ、A子は思い切って絵を授業に提出した。案の定、「テーマがありきたりで幼稚」という評価が帰ってきたが、以外にもそのことは余り気にならなかった。どうしてかと思って首をひねると、ああそうかと気がついた。
既に、例の魔術を体験していたから。魔術が発動する条件は、自分と「自分の感性に対して誠実なこと」だというのを既に知ったから、イマイチな評価よりもそっちの方に夢中になっていたから。
A子は、なぜB太が評価を恐れず堂々と好きなものを好きに描けるのかがわかった。
主観的根拠は、場合によっては客観的根拠と同じかそれ以上に大切なのだ。その感覚をB太は知っていて、A子は忘れていた。その結果が、無責任なネグレクトだ。

A子はこの絵をB太と一緒に若手を発掘するための展覧会へ出展した。審査員の投票とギャラリーの一般投票で賞が決まる仕組みだ。
結果はB太が佳作。A子は佳作まであと少しだったが、惜しくも落選した。けれども盛況の展覧会に行った日、A子は自分の絵が見知らぬ何人ものギャラリーを心地よくさせるのを、この目でしっかりと見た。
この一連の体験に励まされ、A子は自分の描きたいもの(=心地よいと思えるもの)を自信を持って素直にかつ誠実に描ける様になっていった。ぎこちなく荒削りな表現から、徐々に洗練されてゆく兆しも出てきた。

「絵を描いてる時の君が好き」
B太は、初めて気持ちを伝えた時と同じ言葉で、再びA子に想いを伝えた。

二人は再び付き合いだした。自分の絵と時間は大切にしながら。はたから見れば、やっぱり今までと変わらないだろう。でも当事者の気分は全然違っていた。昔のように舞い上がるような興奮のときめきよりも、もっと穏やかで安定した雰囲気の、「敬意」や「信頼」に近い対等な感情。A子は、自分自身のコンプレックスがB太を現実離れして理想化し、カリスマ化していたことを知った。本当は不器用でかわいいところがかなりある人だった。歳は一つ上だが、同い年か、弟みたいな感じもする。以前の印象と似た、スマートで頭の回転が速くて優しいお兄さんみたいなところも、時折見え隠れはしていた。
相手の欠点も見えてきた。B太は少しルーズで短絡的で忘れっぽいところがあった。A子は時折受身すぎたり、優柔不断なところがあった。お互い人間なので欠点を持っていたし、そのことでしばしば衝突することはあったが、親しみは失われなかった。絵に関するやり取りは、相変わらず有意義だった。絵のことだけは、いつも新鮮な刺激を互いに得ることが出来た。やりとりのあと、絵を描く気力が、湧いてくるのだ。二人の共通の長所は、「絵が好きなこと」「自分の絵が描けること」だとお互い思った。世間一般のカップルの様に人気のデートスポットでいちゃつくよりも、芸術的な感性を通したやり取りの方が楽しかった。

私は、B太に憧れていた。自分の絵にコンプレックスを持っていて、本当はB太みたいに「自分の絵が描ける人」になりたかった。でも今私は、やっと自分の絵が描けるようになった。自分に対して価値が持てるようになった。
そしてある時、A子はふと思った。
『B太とは友達でもいいんじゃないかな?』

つづく

2006年8月11日 (金)

絵を描いてる時の君が好き③

B太の声のニュアンスは、「しばらく距離を置く」というよりも、「一旦別れよう」という意味に近かった。
A子は何も言わなかった。最初はひどく不安でドキドキした。でもよく考えて落ち着こうとした。
「自分の時間も大切にするから、重くならないようにするから、今まで通りでいたい。離れたくない」
・・・と、言おうと思えば言えた。でも言わなかった。その方が楽だと気付いたから。A子はくたくただった。現状に執着していたら、付き合い方を変えられそうにない。どんなに疲れても、執着が自分の時間を省みるのを邪魔してしまう。そして今みたいな付き合い方を続けていれば、ずっと疲れてなきゃいけなくなると思った。無理し続けることが止められないままになると思った。B太もそういう付き合い方は疲れるんだろう。
今同意すれば、少しの間切なくて辛かったり落胆したりするかもしれない。けれど二人とも疲れきってダメになるよりよほどましだ。深刻な犠牲が出る前に・・・
既に、無理をした反動が来ている。そのせいか、B太の言うことに反発する気力はなかった。今は何よりよく休んで、自分を立て直したかった。そっちに集中したいのだと思う。
不思議と寂しさは感じなかった。嫌われたわけではないのだと、わかるから。むしろその逆だ。
・・・・・・沈黙がややあって、A子はB太の言うことに同意した。それでも後で後悔するかなと思うと、勇気が要った。同意しても、寂しく思わなくていいんだよね?
B太は予想以上にすんなり話が終わったことが少し意外だったけれども、ほっとした。沈黙の間、泣くかなと考えて緊張していた。冷たく突き放されたと思われただろうか? 
B太はするすると器用にりんごの皮を剥きだした。食べやすい大きさに切って、ようじを刺して、二人で黙ってたべた。たべおわった後、
「・・・・・・それでもまた会える?」「当たり前じゃん。」

「じゃ、早く元気になれよ。またね」
ドアの間からひらひらさせた手だけを最後に残して、B太は去っていった。

つづく

2006年8月 2日 (水)

絵を描いてる時の君が好き②

A子は懸命に狭い道を歩いていた。何としてでもある場所にたどり着きたいのに、迷路のような道は複雑に曲がりくねり、枝分かれし、行き止まりになっている場所ばかりだった。あと少しで目的地が見えているのに、そこに繋がっていない道もあった。何度もあちこちを行ったり来たりして、足が棒のようだ。さまよった挙句、いつも決まってもう一人の自分が椅子に座り何やらスケッチしていて、狭い道を塞いでいる場所に出る。後ろから何度も「どいて」と言うのだが、決して振り返らない。動かない。だから、また別の道を探す。再びその場所に出る。その繰り返し。
もうひとりの自分の意識も、A子にはわかっていた。視界の隅に通りたがっている自分がいるのは知っているけど、無気力になっていてどうしてもその場を動きたくなかった。「目的地にはたいした価値はない。行く意味もメリットもない。むしろ、恥ずかしい思いをさせられる場所だ。そんな場所のどこに価値がある? 価値を感じるなんてただの思い込みだ。どこに客観的な根拠がある?それよりも、最初から何も考えずにここで見たものを主観を交えず地道にスケッチし続けていれば、いつかきっといいこともあるに違いない。客観的根拠のある価値を得るかもしれない。主観など、ただの思い込みだ。」
それに対して「さまようA子」は、「目的地の価値に客観的根拠を期待するのではなく、まずは目的地にたどり着くこと自体に私だけの個人的な意味がある。何故なら、そこに行かなければ、その先へ進めないから。その先の地はとても広くて、こんな狭い道よりもいいことが隠れている可能性はずっと高い。道の続いている限りどこにでも行けるなら、自分の主観が望む場へ行くべきだ。そこが当座の目的地だ。」と考えているようで、どいてくれないもうひとりのA子に痺れを切らし、とうとう遠くから助走をつけて飛び越えることにした。地面を蹴ると、身体がふわりと上がってもう一人の自分の肩越しに目的地が見えた。右足と身体はもうひとりの自分を飛び越えた。左足は肩に引っかかり、A子はつんのめって自分の前に落ちた。腕が痛い。何とか頭をもたげると、前には目的地が見えていた。
そして、目が覚めた。

結局、A子は過労のため病院で点滴を受ける羽目になった。
病院のベッドで横になっていると、B太がお見舞いにやって来た。
「大丈夫? そんなに疲れるまで無理しちゃだめだよ」
この時、A子はムッとした。
「あなたのためにがんばったのよ。ひとごとみたいに言わないで」
A子はB太の個展のために自分がどれだけ尽くしたのかを話した。自分の絵を描くのもそっちのけで、寝る間も惜しんで。全てはB太に少しでも良い結果を出して欲しいから。
B太はそれを聞いて、さっきよりも強い口調で言った。
「だから、そんなことしちゃダメなんだってば」
「・・・・・・手伝ってくれたことには本当に感謝しなきゃいけないと思うけど、自分のことを犠牲になんてして欲しくなかった。個展でも何でも、僕のことは自分で何とかするけど、君が自分のことを放り出したら、誰が代わりにやってくれるの? 君が描くはずの絵を、誰が変わりに描いてくれるの?」
A子は、二人が仲良くなったときのことを思い出した。お互い、相手の描く絵を楽しみにしていたのだ。互いに相手の絵が楽しみだから、互いに励ましあった。そんな中で絵を描くと、ほんの少しだけ素直に描けるし、とても気分がよかった。そしてある時、「絵を描いてる時の君が好き」と言われたのだった。
絵を描く時間を犠牲にし続けていたことが、気付かないところで自分に負担をかけていたことにA子は気がつきはじめていた。もしかすると、「本当に描きたいものをなかなか素直には描けない」ことから目を背けるために、がむしゃらにB太を手伝っていたのかもしれない。そうしていれば、いつも不完全にしか満たされない「絵を描く意欲」を雲のように覆い隠してしまうことも出来た。けれど、隠れるだけで、消えはしないのだ。
「僕も君に甘えていたと思う。そう。これ以上甘えても甘えさせてもだめなんだ。・・・・・・自分にしか出来ない大事なことを犠牲にしてまで僕のやることに尽くされると、重いよ。埋め合わせられないよ。ボロボロになってるの、見てられないよ。うれしくないよ。あんなことは、家族が危篤になった時にでもやればいいんだ。
・・・・・・このままの付き合い方じゃ二人ともダメになると思う。しばらく距離を置いて自分だけの時間を持てるようにしよう。」

つづく

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